最初、娘に見せたら「これ何?」と言われてしまったのですがw
鶴屋吉信の「胡蝶」。今年はとらやの胡蝶が販売されなくて。でも蝶々の和菓子、やっぱり買いたいなと思って、伊勢丹で購入しました。
今年の鶴屋吉信の「胡蝶」は、外郎が肉厚。確かにパっと見では蝶々と分かりづらいかも。
既に桜が終わってしまったので、庭に咲いていた花を散らしてみました。
蝶々っぽく見えるかな。
胡蝶と言えば、落合陽一さんの講演会で荘子の「胡蝶の夢」の話が出て。よく知られた言葉でしたが、実はちょっと誤解していたことに気づきました。
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
最後の「これが物の変化というものである」
ココね。
この話で一番言いたかったことはコレなんだ、と、この年になって初めて知りましたw
単なる夢オチではない。
知っているつもりで、実は知らなかったこと、誤解していたことってたくさんあるなと改めて思いました。
老荘思想は、落合陽一さんの次回作(「デジタルネイチャー」)を読む上でもたぶんキーになりそうなので、ちょっと勉強してみたいと思っています。
↓まずはマンガで。